目次(もくじ)
はじめに
安全衛生教育義務の規定のうち、雇入れ時の教育については、①のコラムで紹介しました。
今回は、安全衛生教育義務に関する裁判所の判断を見ていきたいと思います。
長崎地方裁判所平成28年12月20日判決
概要
温泉旅館の従業員であった2名(B・C)が、旅館の敷地内に設置された温泉タンク内で硫化水素中毒により死亡する事故が起こったため、B・C両名の法定相続人らが、温泉旅館を相手に、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償請求(安全配慮義務違反)を求めた事案です。
裁判所の認定した事実
事故当時、温泉タンクを含む施設管理全般は、被告の総務部管理課(営繕課)が担当しており、B・Cは営繕課に所属し、労働安全衛生法所定の安全管理者は課長Eでした。また、労働安全衛生法所定の衛生管理者は総務課のJが務めていました。
温泉タンクは底部に不溶性の沈殿物が蓄積されるため、営繕課がサブタンクを月に1回程度清掃していました。サブタンクの清掃方法は、タンク上部から放水するもので、タンク内に入ることはなく、作業中に強い腐卵様臭がすることもありました。
事故が発生したタンク(以下、「本件タンク」といいます。)はメインタンクで、事故の1年程前に設置された後、一度も清掃されていませんでした。そこで、一度清掃することになりましたが、特に担当等は決められませんでした。
事故当日、Cは他の作業が終了したため、午後1時半から50分頃にEに沈殿物が溜まっていることを伝えると、EはCに本件タンク内の清掃を指示し、午後2時頃にはEは体調不良のため早退しました。
午後5時半頃、営繕課のHがCを探していたところ、本件タンク内からうめき声が聞こえたため、タンク上部から中を覗くとB・Cが倒れているのを発見しました。Hは扇風機を回し上部から中の空気を出しつつ電動鋸で側面を開け、B・Cを運び出しましたが、B・Cは搬送先で死亡しました。
Hが発見した時、タンク上部からホースが入れられ放水されたままで、沈殿物は概ね除去され、底面角部に寄せ集められたような沈殿物の塊があったのみで、Bの帽子はきちんと置かれていました。
タンク底部の沈殿物は硫化水素です。硫化水素は、無色、腐卵様臭、水溶性、窒息性刺激腐食性ガスであり、空気より重いです。空気中の硫化水素濃度による毒作用は、100~300ppm 嗅覚神経が麻痺し、かえって不快臭は減少したと感じるようになる。1時間以内の曝露なら重篤症状に至らない限界。8~48時間連続曝露で気管支炎、肺炎、肺水腫による窒息死に至る。
350~400ppm 1時間曝露で生命の危険が生じる。
600ppm 30分間の曝露で致命的となる。
700ppm 短時間で呼吸麻痺する。
800ppm~ 意識喪失、呼吸停止となり、急速に死に至る。
本件事故当日に本件タンク内の硫化水素濃度を計測したところ4ppmでしたが、底面角隅に集められた沈殿物の直上は33ppmでした。サブタンク内部の硫化水素濃度を計測したところ、温泉水を底に溜まった沈殿物が浸るくらいまで抜いた状態から沈殿物を攪拌した状態で150ppm、事故後に設置した新しいメインタンクを1月後に同様の状態で計測したところ100ppmでした。
本件事故以前、衛生管理者Jは温泉タンク内で硫化水素が発生していること、硫化水素の有毒性について考えたことがありませんでした。安全管理者Eは、硫化水素の発生や、硫化水素が危険なものであることは知っていましたが、死亡事故もある危険なもの等の漠然とした認識があったのみで、硫化水素の特性(有毒性や危険性)について具体的に認識把握していたわけではありませんでした。
被告内部でも、温泉タンクないし硫化水素の有毒性・危険性等について、特に検討や議論をしたことはなく、従業員に対して具体的な教育指導をしたことは一度もありませんでした。防毒マスク等の保護具を用意することも、タンク内の清掃作業の具体的手順を定めることも、タンク内への立入禁止を明確に定めることもしていませんでした。
裁判所の判断
長崎地裁は、(2)の事実を認め、
午後1時半から50分までの間にCが清掃を行うことになり、午後5時半頃発見された際の状況から、BはCを助けるためにとっさにタンク内に入ってとは考え難いこと、そして、本件タンクは、1年以上清掃されておらず、事故発見当時は底部が温泉水に浸った状態ではなかったこと、角隅にあった沈殿物の直上では33ppmもあったこと、B・Cが数時間の曝露で硫化水素中毒により死亡したこと、発見時にはBは心肺停止状態であったことなどを考えると、硫化水素濃度は300ppmを超える超高濃度になっていた可能性が高い。B・Cは本件タンク内で清掃作業をする途中で硫化水素に曝露されて倒れ、その後死亡したと認められるとし、そのうえで、被告の安全配慮義務違反について、
「温泉タンク内から硫黄臭ないし腐卵様臭がすること、すなわち硫化水素が発生していることは周知の事実といえ、実際に、本件…タンク内においても、清掃作業時には100ないし数百ppmという高濃度の硫化水素が発生していたのであるから、そして、硫化水素は毒作用を有するもので生命の危険も生じるものであるから、使用者である被告や、その安全管理者であるEには、従業員、とりわけ温泉タンクの維持管理業務に従事する営繕課の従業員に対し、日頃から、硫化水素の特性(有毒性や危険性)を正しく認識理解できるような安全衛生教育を行い、作業時の手順や安全上の注意を明確に定めたり指示したりしておく義務…があったというべきである。また、…本件タンク内の清掃作業を行うに際しても、硫化水素の有毒性・危険性や本件タンク内に入ることの危険性を正しく認識理解させた上、その作業手順や注意事項を具体的に指示すると共に、本件タンク内に入るのは禁止であることを明確に指示しておく義務があったというべきである」として、それらの義務を履行していなかった被告には安全配慮義務違反があるとしました。
また被告の、営繕課員であるB・Cは温泉タンクの清掃の際に硫化水素が発生することを知っていたとの主張に対しては、「被告営繕課の従業員は、サブタンクの清掃作業等の経験上、温泉タンクの清掃作業時に…硫化水素が発生することを知っていたものと推認されるが、その経験は、ある程度の臭気がしても大丈夫(死亡するような大事故にはならないなど)との慣れや誤解を生じさせかねないものでもあり、それだけでは、硫化水素の有毒性・危険性の具体的な内容程度、例えば、硫化水素は空気より重い(すなわち、上部では硫化水素濃度が低くても、下部では高いことがある。)硫化水素濃度が20~30ppmだと臭気への慣れで強さを感じなくなり、100~300ppmだと臭覚神経が麻痺してかえって不快臭が減少したように感じる(すなわち、臭気が強くないとか減少したと感じる場合は、かえって生命の危険が増大していることがある。)、ガタ(筆者注・沈殿物のこと)を撹拌すると硫化水素濃度が急激に上がる、300ppm超になると数時間で生命の危険が生じるなどといった事柄を正しく認識理解することは到底不可能である」として、「被告において、営繕課の従業員に対して…教育指導をしたことは一度もなく、同課長であり安全管理者であるEにおいても、…具体的な認識理解まではしていなかった状況において、営繕課の一般従業員のみが、…正しく認識理解していたとか、タンク内部の硫化水素の知識を十分に有していたなどとは認められない」と判断しています。
なお、B・Cが営繕課での清掃経験等により、抽象的には硫化水素の危険性を理解していたとして、過失が1割認められています。
解説
硫化水素が危険であることは、一般の人でも報道等で理解しているところでしょう。この事件は、硫化水素の清掃作業まで行う労働者に対し、使用者が硫化水素の特性(有毒性・危険性)等の安全衛生教育を行っていなかったため発生し、安全衛生教育が不十分であったとして温泉旅館に責任を認めました。本件に先行して刑事責任も認められています。
温泉旅館における安全衛生教育については、労働安全衛生規則59条1項、労働安全衛生規則35条、労働安全衛生施行令2条において規定されています。
すなわち、旅館業において、事業者は安全衛生教育を行う義務があります。なお、教育を省略できるのは特定の事項(例えば特定の機械の操作)について全部または一部に十分な知識・技能がある場合の、当該「特定の事項」についてのみです。
硫化水素の特性は労働安全衛生規則35条1項1号の「機械等、原材料等の危険性又は有害性…」に該当すると考えられ、裁判所が認定した硫化水素の特性を十分理解した人でなければ(硫化水素の特性を一部しか知らないような人は十分な知識があるとはいえないでしょう)、安全衛生教育の内容の1つとして、硫化水素の特性を教育する義務があるといえます。
特に、硫化水素の特性のうち、比重が重いため底部に溜まる、水溶性、攪拌すると濃度が急激に上がる、100ppmあれば嗅覚神経が麻痺し、かえって不快臭は減少したと感じるようになり長時間曝露で死に至るなどのことは、知識がないと本件のように危険な清掃の仕方をしてしまうことは想像に難くありません。
なお、裁判所は、本件でHが発見した際の行動について、B・Cが倒れている状況を見てガスの危険を感じ本件タンク内に入らなかったにすぎず、硫化水素の危険性を正しく認識していたことを示すものといえないとしています。抽象的危険の認識であったとしても、Hのような行動を取ることができること、そもそも教育を行っていなかったから本件事故が発生してしまったということでしょう。
また、本件では、安全衛生教育が行われなかった理由の1つが、旅館(事業者・使用者)と管理者(E・J)が硫化水素の特性を全くまたはほとんど認識していなかったことです。
安全管理者は、安全に関する具体的な措置を採らなければならず(労働安全衛生法10条1項、11条1項)、「…設備、作業場所又は作業方法に危険がある場合における…適当の防止の措置」(10条1項1号)、「作業の安全についての教育及び訓練」(同3号)などの責務を負います。労働安全衛生法規則6条1項においても、「作業場等を巡視し、設備、作業方法等に危険のおそれがあるときは、直ちに、その危険を防止するため必要な措置を講じなければならない」とされています。
衛生管理者も同様に、衛生に関する具体的措置を採る義務があり、その内容は安全管理者と同様です(法12条、10条、11条)。そして、規則11条1項で、「衛生管理者は、少なくとも毎週一回作業場等を巡視し、設備、作業方法又は衛生状態に有害のおそれがあるときは、直ちに、労働者の健康障害を防止するため必要な措置を講じなければならない」とされています。
これら管理者の選任を規定する法の趣旨を考えると、本件のE・Jは責任を果たしていなかった(選任した被告が使用者責任を負う)という結論は当然ともいえます。
なお、この裁判例は主に安全衛生教育をしていなかったことを安全配慮義務違反の根拠としていますが、他の点も根拠としています。今回は安全衛生教育に絞っています。
おわりに
安全衛生教育については、法定労働時間内に行わなければならないため、事業者が時間・経費を惜しんで行われないことは多くあると思います。しかし、安全衛生教育は法定の義務であり、また、長期的に見た費用対効果では事業者にメリットがあります。
労働者としては、わからないことはわからないと事業者に伝えること、抽象的でも危険を感じる職務内容である場合に使用方法や作業工程の策定を求めるなどで、自分の身を守ることも必要となることがあるでしょう。大切にするべきは、自らの生命・身体の健康と、自分に関わる人のあんしんです。
しかし、安全衛生教育が行われず、不幸にも労災に遭ってしまった場合には、労働安全衛生関連の規定に詳しく、労災を多く扱っている弁護士に相談されることをお勧めします。
併せて、安全衛生教育について➀のコラムのご参考にしてください。